天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第106号

福島の人たちに届け!我らのこころ
長山滋賀教区宗務所長ら相馬市の仮設で餅つき

 天台宗滋賀教区の有志住職と檀信徒が、十二月三日、東日本大震災被災者の支援と激励のために、福島県相馬市の仮設住宅で餅つきを行った。餅つきに先立ち、檀信徒が甚大な被害を受けた相馬市磯部の妙樂寺(岩崎豪信住職)では、長山慈信滋賀教区宗務所長を導師に、同教区住職の出仕で、物故者慰霊並びに復興祈願法要が営まれた。

 餅つきは、天台宗滋賀教区の明王寺(土田晴信住職)が呼びかけ、同寺檀信徒らで組織する農業法人・磯尾里山農場が主催した。
 同日は、同教区甲南部の文殊院(中村徹信住職)、慈音院(木村孝英住職)、嶺南寺(松岡順海住職)と長山所長が参加して行われた。
 一行は、前日午前五時に臼や杵などの餅つき道具を車に積み込んで滋賀県を出発、約十二時間かけて福島に到着。
 三日は午前十時から妙樂寺で法要が営まれたが、岩崎住職によれば磯部地区では二百五十人が犠牲になり、そのうち妙樂寺檀徒百十五人が亡くなったとのことである。
法要に参列した矢島義謙福島教区宗務所長は「天台宗の他教区が福島で大震災法要をされるのは初めてです。餅つきもしてくれるとのこと。感激でいっぱいです。復興へ進む決意を新たにしています」とお礼を述べ、林光俊同教区宗議会議員は「今日の感謝を忘れることなく、皆と上を向いて歩いていきたい」と挨拶した。法要には渡邉亮海前宗務所長も参列した。
 その後、被災者約五百人が暮らす柚木仮設住宅へ移動、雨のために集会所で餅をついた。長山所長が見守る中、里山農場で栽培された餅米を土田住職と中村住職が最初につき、里山農場関係者に引き継がれた。つき上がった餅は、里山農場の婦人たちの手でアンコやきな粉がまぶされ、待ちかねた被災者の手に。「臼でついたお餅なんて、感激」「本当においしい」と大好評。さらに、お正月に食べてもらおうと五俵分を事前に加工し、真空パックに詰めた切り餅六百八十袋を持参。餅米のままで欲しいという地元の要望で、二俵分の餅米も小分けされ、柚木仮設住宅と北飯渕仮設住宅に配布された。
 服部静夫同農場理事は「精魂込めて育てた餅米が、被災者の皆さんのお役に立つなら本当に嬉しい」と語った。長山所長は「里山農場の人たちが、餅米の作付けをして『被災地に届けたい。元気をつけてもらいたい』という心が有り難いこと。一日も早い復興を心から念じます」と語った。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

暗闇を嘆くより、一燈を点けましょう。
我々はまず我々の周囲の闇を照らす一燈になりましょう。
手のとどく限り、至る所に燈明を供えましょう。
一人一燈なれば、萬人萬燈です。

安岡正篤「一日一言」

安岡正篤氏は、東洋思想の研究と後進の育成につとめた思想家です。
 終戦時は、昭和天皇自身によるラジオ放送の終戦の詔書発表(玉音放送)に「万世ノタメニ太平ヲ開カムト欲ス」と加筆し、原稿を完成させ皇室からも厚い信頼を受けていました。
 戦後は、多くの政治家や財界人の精神的指導者として御意見番の位置にあった人です。
 また平成の元号を考案したとも言われており、一貫して「私は教育者である」と主張されていたといわれています。
 この言葉は「一日一言」の最後に「萬燈行」として置かれているものです。
 「このままで往けば、日本は自滅するほかはありません。我々はこれをどうすることも出来ないのでしょうか。我々が何もしなければ誰がどうしてくれるでしょうか。我々が何とかするほか無いのです」と述べたあと冒頭の言葉に続きます。
 天台宗の提唱している「一隅を照らす運動」と底流では大いに共通しているものがあります。言葉そのものは平明ですが、実践するのは不断の努力が必要です。
 世の中が暮らしやすく、また自らが充実して生きる基本が示されているともいえるでしょう。
 東洋では思想にせよ、武術にせよ「基本こそ奥義」といわれます。基本が出来れば、もうその神髄を体得したことに等しいというのです。
 そう考えれば安岡氏が「一日一言」の最後にこの言葉を置いているのも基本にして奥義であるからだと思われます。

仏教の散歩道

影から逃げる

 中国古典の『荘子』(雑篇)に、自分の影をこわがり、自分の足跡を嫌った男の話があります。
 そこでその男は、走って逃げ出す。だが、いくら逃げても足跡はかえって多くなり、影はどこまでも追いかけて来ます。
 男はそれを、自分の走り方が遅いせいだと思い、ますます疾走し、そしてついに力が尽きて死んでしまいました。
 では、男はどうすればよかったのでしょうか?『荘子』はこう言っています。
 《日陰(ひかげ)に入って影を消し、じっと立ちどまって足跡を作らずにいることを知らなかったのだ。馬鹿かげんもひどいものだね》(金谷治訳・岩波文庫)
 大きな影の中に入って動かなければ、影も追いかけては来ませんし、足跡もつきません。そういうやり方がいちばんいいと『荘子』は言うのです。
 さて、『荘子』のこの話から、わたしは禅籍『碧巌録(へきがんろく)』にある、有名な
 ―洞山無寒暑(とうざんむかんしょ)―
 の公案を思い出しました。洞山というのは、中国・唐代の禅僧の洞山良价(八〇七―八六九)です。
 洞山のところに、一人の僧がやって来て質問します。
 「寒暑到来、如何(いかん)が廻避せん」(寒くなってきたとき、暑くなったとき、どうしたら寒さ、暑さから逃れられますか?)
 それに対する洞山の答えは、 「無寒暑の処に行けばよい」  でした。じゃあ、無寒暑の処(寒さ・暑さのない処)とは、どういう場所ですか?それに対する洞山の答えは、
 「寒いときは、おまえさんを寒殺し、暑いときは、おまえさんを熱殺せよ」 
 でした。“寒殺”“熱殺”なんて、ちょっとおっかない言葉が使われていますが、寒いときは寒さそのものになりきれ、暑いときは暑さそのものになりきれ、といった意味でしょう。
 冬のスキーや夏の海水浴は、わたしたちの寒さや暑さをちっとも苦にせず、むしろ寒さ・暑さを楽しんでいます。それがなりきることだと思います。
 そうすると、これは『荘子』の言っていることと同じです。影から逃げるのではなく、大きな影の中に入るのです。つまり、影そのものになりきればいいのですね。
 現代日本人は貧乏を苦にし、貧乏から逃げよう、逃げようとしています。
 でも逃げれば逃げるほど、貧乏は追いかけて来るのです。絶対に逃げきることはできません。 
 それよりは、貧乏そのもののうちにどっぷり浸かってしまえばいいじゃないか。貧乏になりきってしまって、むしろ貧乏を楽しめばいいじゃないか。というのが、『荘子』や洞山良价の言いたかったことではないではないしょうか。
 わたしはそのように考えています。

カット・酒谷 加奈

ページの先頭へ戻る