天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第105号

千年の灯を「蓮華のともし火」として引き継ぐ
座主猊下を迎え横大路家から太宰府・妙香庵へ

 伝教大師ゆかりの「千年の法灯」が、福岡県新宮町の横大路家から太宰府の妙香庵(森妙香住職)に移されることになった。十一月四日に、妙香庵の伝教大師像建立二十五周年とあわせ、半田孝淳天台座主猊下大導師により「蓮華のともし火」として開眼法要が厳修された。

 法灯は、伝教大師が、横大路家の祖先に八〇五年に授けた火とされる。以来、国重要文化財「横大路家」のかまどで代々絶やさずに千二百年のあいだ護り続けられてきた。そのために横大路家は「千年家」と呼ばれている。
 伝教大師が入唐求法の旅から帰国直後、家に泊めてもてなした同家の先祖に、横大路の姓とともに火を分け与え「火を守れば末代まで繁栄する」と伝えたといわれている。
 しかし、平成二十年に横大路家の第四十四代当主が亡くなり、その妻である千鶴江さんが、灯火を守ってきていたが、昨年八月に八十七歳で逝去。四十五代目の当主は、仕事の関係で広島県に在住のため、管理することが難しくなり、妙香庵に移されることになった。
 妙香庵に移すまでの間は、九州西教区の長壽寺(角本尚雄住職)、西巖殿寺(鷲岡嶺照住職)らが、ランプに灯して管理していた。
 同日の法要には、阿純孝宗務総長、武覚超延暦寺執行、藤光賢宗機顧問はじめ、天台宗内局と宗議会議員、宗務所長、教区住職らと、妙香庵信徒約二百名が随喜した。
 半田天台座主猊下は開眼法要で「伝教大師が授けられし灯火は、千年家の炉火として千二百年のたゆまぬ伝持を経て、此処に新たに所を得て『蓮華のともし火』として衆生 益の輝きを増す」と法則を述べられた。その後、新たに造立された毘沙門天が座主猊下によって開眼され、同時に加持された「千年家伝承の炉火」を森住職が受け取り、蓮華を形取った炉へと点火した。
 半田猊下は祝辞でこれまで灯火を護り続けてきた横大路家に謝意を表された後「大師像と共に『蓮華のともし火』により大師のみ教えを敷衍して頂きたい」と述べられた。
 森住職は「蓮華のともし火を永きにわたりお護りすることになり身の引き締まる思い。大切に、大切にお護りし、このともし火が、妙法華経の華となって皆さまの心に咲き続けてゆくようにつとめたい」と謝辞を述べた。
 灯火を納める蓮華の炉は、比叡山ケーブルカーをデザインした東京のデザイナー櫻田秀美さんがデザインした。
 
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 蓮華のともし火

 「蓮華のともし火」は、蓮の華が開いた形でデザインされている。「中心花弁」「姿勢花弁」「観諦花弁」「本覚花弁」の四重の花弁を持ち、それぞれの花弁には、「忘己利他」「悉有佛性」などの計十六の仏語が刻まれている。
 その花弁の集まりが「美しい心」の象徴であり、人々の幸せを祈る、温かな「ともし火」を包んでいる。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

泰平の幾時代かがありまして
リンゴもむけぬギャルらはびこる

杜澤光一郎(歌集『爛熟都市』所収)

 「そんなことないわ。リンゴぐらいむけるわよ」と知人の娘さんはピーラー(皮むき器)を持ってきたとか。昭和時代末期に作られた歌。
 「泰平の幾時代」は、色々とはびこる者達を生み出しました。電車で化粧する女性、卵を割れない男、ケータイを離せぬ人々、合掌を知らない子どもたち、ひきこもり。
 この歌が詠まれた二十数年前の日本は富み栄えています。しかし、時代は変わりました。日本は、経済、文化、技術、社会倫理などすべての面で下降しています。泰平の時代は遠い昔話です。この低迷の時代には、再び自立して自らの行動に責任を持つ、凛とした人たちが登場するのでしょうか。「草食男子」といわれるようでは難しいかもしれません。
 杜澤さんは、若き頃から宮柊二門下の俊英として頭角を現した歌人です。実生活は埼玉県内の荒れた高校、優秀な人材の集まる女子校などで長く教諭を勤められました。
 「家庭教育のしっかりした娘たちは、基礎がしっかりしているから優秀でした。皆が協力しながら歌を歌いながら掃除をするのを見るのは感動的でした」と語っておられます。
 しかし「退学せし生徒の机 差し込める冬日を白く反しつつあり」というように、落ちこぼれた生徒にも愛情あふれる歌を詠んでいます。「泰平の幾時代かがありまして」は中原中也の「幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました」(サーカス)のもじりです。
 この歌は朝日新聞に連載された大岡信さんの「折々のうた」に採られたものです。思わずニヤリとしたので記憶に残っていたのですが、その作者が埼玉県歌人会元会長で、比叡山仏道讃仰和讃の作詞者で、天台宗報恩寺住職とは知りませんでした。この作者の本質は「存在の寂しさ」「暗き抒情」にあると評されています。そのことは、また来年の「仏と生きる」でご紹介したいと思っています。

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