天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第14号

天台の法灯が初めて沖縄へ
《新寺建立し、布教を展開》

 これまで、天台宗寺院がなかった沖縄に、寺院を建立し布教に歩く僧侶がいる。金城眞永師(五十歳)。寺は沖縄県具志川市の地蔵院である。もともと金城家の田があった土地に新寺建立した。天台宗と包括関係を結び、所属教区を決定して法人格を取得すれば、初めて比叡山で修行した僧侶によって沖縄に天台の灯がともされる。

 金城師は、カウンセラーとして東京都江戸川区の教育研究所教育相談室員を経て、比叡山明王院(中山玄晋住職)の法嗣となり比叡山で修行した。比叡山行院を履修したあと東京の深大寺(谷玄昭住職)で三年を過ごし、故郷である沖縄に帰り、五年間天台の布教に努めている。
 沖縄は、琉球王国であった徳川初期に島津候に征服され、以来その宗教政策と伝統宗教により天台の教義は根付かなかった。記録によれば、大正時代にひとり修験系の僧侶がいたことは判明しているが、比叡山で修行した僧ではなく、まもなく他宗に転派している。このため地蔵院は沖縄で初めての天台宗寺院であり、金城師は、初めての正統な天台宗僧侶となる。
 開宗千二百年慶讃大法会で、総授戒を進めるにあたり天台の拠点の少ない地にもと調査をしたところ、谷住職から西郊良光宗務総長に連絡があり、その存在が一躍クローズアップされたもの。
 金城師は「沖縄の風習、文化を取り入れながら、天台の教えを弘めてゆきたい」と語っている。

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素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

人は花を見ているとき、花から自分が見られているとは思わない。
しかし、花はたしかに人を見ている。
好悪の感情さえ抱いて人間を見ているのだ。

「仏教のキーワード」 紀野一義 著 講談社現代新書

 植物にも、好きな人間と嫌いな人間があるそうだ。
 電流を流す装置を使って反応を見ることで、その植物がどんな“感情”を持っているのか判断できるという。
 例えば、“この花は切ってしまおう”などと喋ったりすると、当の花は恐ろしさで、大きな動揺を示すらしい。
 反対に“なんて綺麗なんだろう”と賞めたり、美しい旋律の音楽を聴かせたりすると喜びの反応を表すということが、科学で証明されたのだそうだ。
 さすがに現代科学は素晴らしいとも思うが、しかし科学実験に頼らなくても、昔の人は体験的にこのことを知っていた。
 人間を相手にするように、慈しみ大切に育てると、作物の出来が全然違うことを、農業をする人はかねてから知っていた。また、古い大きな樹には魂が宿っていると考えればこそ、人々は話しかけたり、祈ったりしてきたのである。
 いわば、科学は、このような事実をただ証明したに過ぎないともいえるのだ。
 一木一草の“心”をみるのは科学ではなく、人の心の中にある仏である。

鬼手仏心

和顔愛語  天台宗宗務総長 西 郊 良 光

 
 「和顔愛語」という。
 おだやかな顔、やさしい言葉、のことである。これは、常に他人を思いやる気持ちがなければ出てこない。
 今、日本の社会は、和顔愛語で暮らす人々が少なくなった。
 グローバルスタンダードという弱肉強食の論理を「世界基準」だとマスコミが喧伝してから和顔は影をひそめ、また、感情言葉が氾濫してから、思いやりある言葉は、あまり聞かれなくなった。
 最も和顔愛語をもって、自分の子どもに接するべき母親が、ひどい虐待や傷害を行う。和や愛に代って、孤独といら立ちが引き起こす事件である。不安や不満が、人間の心をシャットアウトしている。
 その不安や不満の原因のひとつに、日々繰り返される情報の洪水がある。ほとんどは欲望を煽るもので、人々の心に欲求不満を残すものだ。本来、情報やモノを自由に取捨選択できるのが成熟した社会ではないかと思うが、そんな生やさしいものでない。よほど自分を強く持たなくては、押し流されてしまうほど脅迫的なものだ。我々は、餓鬼の世に生きているのかも知れぬ。
 宗祖大師は「さとりを得たよろこびを、私は決して独占しない」と述べられている。常に心を静かに保ち、自分を忘れて他の幸せのために祈り、行動することが天台宗の基本だ。あなたの思いやりのあるやさしい言葉で、一日の疲れを忘れる人や、生きてゆく勇気を与えられる人が、きっといる。

仏教の散歩道

仏国土における幸福

 ほとけの国を“仏国土”といいます。それは清浄なる土地だから“浄土”とも呼ばれます。
 大乗仏教にはさまざなほとけさまがおられるので、浄土も数多くあります。なかでも阿弥陀仏の極楽浄土が有名ですが、薬師仏の浄瑠璃世界もあるし、大日如来の密厳浄土もあります。
 そして、それらの仏国土に共通している特徴は、その世界では、
  -すべての人が幸福になれる-
 ということです。大勢おいでになるほとけさまは、あらゆる人が幸福になれるようにと願って、それぞれの仏国土を建設されたのです。
 では、どうしたらすべての人が幸福になれるのでしょうか……? ちょっと考えてみてください。
 たとえば、すべての人を金持ちにすれば、すべての人が幸福になれますか。そうなれば、あんがいみんなが不満だらけになります。わたしたち凡夫は、他人よりも豊かになりたいという欲望(それが煩悩です)がありますから、他人が金持ちであることが自分を不幸にさせるのです。ですから、すべての人を金持ちにすることは、逆にすべての人を不幸にすることになるかもしれません。
 また、病人をなくし、すべての人を健康にすればいいのでしょうか? そんなことをすれば、医者や薬剤師が生活に困ります。お医者さん、薬屋さんが不幸になるから、すべての人が幸福になれません。
 それなら、医師や薬剤師を転職させるといい、と言われるかも知れません。でも、そんなことをすれば、病院も製薬会社もなくなります。それに、自分の職業を無理矢理変えられて、他の職業に就かされて、その人は幸福ですか。だから病人をなくせばいいんだという発想そのものが、おかしいのです。
 世の中には、頭のいい子もいれば、勉強が苦手な子もいます。学業成績が悪いのは気の毒だといって、みんな同じぐらいの能力にすれば、みんなが幸福になれますか。美人と不美人の差のない、みんな同じ顔にすることが幸福ですか。男性と女性の差をなくし、みんなを中性にすれば、みんなが幸福になれますか。
 それじゃあ、人間はみんな工場で造られた規格品のロボットになってしまいます。あなたの亭主と隣の亭主がまったく同じ形状で、性能も同じ。そんな亭主がほしいのですか。
 すべての人を幸福にするにはどうすればよいか……なかなかむずかしいですね。ただ一つ言えることは、金持ちが金持ちのまま幸福に、貧乏人が貧乏なまま幸福になれるのが真の幸福です。健康な人は健康で幸福、病人は病人のままで幸福、それが本当の幸福なんです。それだけはまちがいないと思います。

カット・伊藤 梓

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