天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第103号

9.11犠牲者を追悼、震災被災者へ連帯
「第25回世界宗教者平和の祈りの集い」独・ミュンヘンで開催

 聖エジディオ共同体が主催する「第二十五回世界宗教者平和の祈りの集い」はドイツのミュンヘンで開催され、天台宗は杉谷義純宗機顧問を名誉団長とする十七名を派遣した。集いでは、世界の宗教者がアメリカの九・一一テロの犠牲者を追悼し、また日本の東日本大震災被災者の連帯と復興を祈念した。

 今回のテーマは「共存する運命」で、集いは九月十一日から十三日までの日程で開催された。
 十一日は、開会式に先立ちマルシュタルプラッツ広場にはクリスティアン・ヴルフドイツ連邦共和国大統領を迎えて「九・一一同時多発テロ追悼式典」が行われた。出席した全宗教者が犠牲者に黙祷を捧げ(写真・上)、鎮魂の鐘が打ち鳴らされる中、犠牲者を悼む焼香が行われた。
 会場はニューヨークと同時中継で繋がれ、テロ犠牲者の遺族たちがモニターを通して「最初は恨みの気持ちでどうしようもなかったが、今は自分を大切にして、お互いを理解し生活しなくてはいけないと思うようになった」などと現在の心境を語りかけた。
 続いて、この日のために作曲された「平和の歌」が披露された。歌は、悲しみを切々と訴え、死者を悼む荘厳なテーマから、次第に明るい調子へと変化し、最後は未来を展望する子供たちの合唱で締めくくられた。
 開会式はヘレクレスザール(官邸)で行われ、ゼーホーファー・バイエルン州首相、ヴルフ・ドイツ大統領、コンデー・ギニア大統領、テュルク・スロベニア共和国大統領ら各国首脳が次々とスピーチを行った。
 翌十二日は各分科会が開かれ、杉谷名誉団長が「アッシジの精神・二十五年の歴史」で、また栢木寛照団長(宗議会議長)が「震災後の日本」の分科会でスピーチを行った。
 同日午後の全体総会にはメルケル・ドイツ首相が登壇し「平和は壊れやすいが、それぞれの宗教が創造的な力を分かち合う方向に進むことを願っている。二十五年の皆様の平和に対する対話と活動に心から感謝している」と述べると大きな拍手が起こった。
 最終日の十三日は、各宗教の代表者がナチスのダッハウ強制収容所跡へ巡礼を行い犠牲者を追悼した。天台宗からは栢木団長が参加した。
 ファイナルセレモニー冒頭に、東日本大震災についてスピーチを求められた杉谷名誉団長は「私たちは大きな家族の一員であり、共に生きる運命にある。人間同士の繋がりが人々を深い絶望から立ち上がらせた。それこそ現代社会に最も必要とされている連帯の心であり、アッシジの精神そのものであろう」と述べた。
 来年はボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで開催される。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

サービスというのは、仏教でいう慈悲の心や。慈悲心を欠いたサービスはつけ足しや。ほんとうに人を動かすことはできない。(略)それが根本やと思う

松下幸之助

 実業界のトップに君臨し「経営の神様」とまでいわれた松下幸之助さんが「サービスの根本は、仏教の慈悲心や」というのは以外のように思えますが、そうではありません。
 古今東西、政財界のトップとまではいかなくても、人の上に立つ人で「宗教不要」という人はいません。少なくとも、そういう人はたいしたことはない。
 一流だと言われる人は「人のためになることは何か」というところから出発します。あるいは最後はそこに到達します。そうであれば宗教(仏教)の教えから学ぶより他にありません。人の上に立つ人たちは、それまでの人生から「こうすればうまくいく」「こうすればダメ」という経験を数限りなく積んでいます。  
 理屈ではなく、体に仏教がしみこんでいることが多いのです。
 現代はマニュアル優先です。けれどマニュアル対応では「私のことを心から思いやってくれている」とは思えません。
 野田佳彦新首相は、第一回松下政経塾の出身ですが、その松下政経塾での講義で松下塾長は「人情の機微を知っていたら、天下でも取れるわ(笑)。人情の機微がわからないから障害が起こってくるわけや。女性に魅力を感じてもらえんような人はあかんで(笑)。君はどうや」と塾生に語りかけています。
 人情の機微を知るというのも、根本は仏教の慈悲心でしょう。人の立場で、その人の気持ちを推し量って、その望むことを考えてあげるということでしょうか。
 サービスというのは、なにも経営や販売ばかりではありません。医療、介護、教育、それに政治や行政、あらゆるものがサービスでしょう。その根本は「仏教の慈悲心である。それがないものはつけ足しである、慈悲心を根本にして運営せよ」というのは卓見であると思います。

鬼手仏心

運が来ようと逃げようと 天台宗出版室長 杜多 道雄

 
 西村恕葉(にしむらじょよう)という川柳作家がおられます。一般に有名な作家というわけではありません。北川弘子さんという川柳人の書かれた評伝で知りました。
 大正十三年生まれというから、今年八十七歳になられるはずです。肉親との縁薄く、十八歳で旅芸人の一座に身を投じたという経歴の持ち主です。「泣いて済まぬ事を他人は泣いてくれ」という句があります。
 旅芸人は楽な仕事ではありません。三、四家族十数名が一座となって興行を打つのです。カネの苦労は絶えないし、役の張り合い、賭け事の争い、痴話喧嘩、やくざとの取り込みもあったといいます。「雪の日の不入りへやけな呼び太鼓」。
二十歳で父親の愛に飢えていた彼女は、五十三歳の旅役者と結婚します。「あっと言わせて齢の差へ嫁ぎ」。
 恕葉さんは夫から受けた恩を思い、これを「恩愛結婚」として、必ず夫の死に水を取ると誓いました。そしてその約束通り、夫が八十九歳で亡くなる時に死に水を取っています。
 北川さんは、恕葉さんと最初に会った時の印象を「胸にブローチがなかったら男と見間違うところだった」と記しています。断髪で、黒髪はぴたりと頭に収まり、旅一座の座長の風格があったというのです。「気障(きざ)な口利くから一瞥(いちべつ)くれる」の凄みがあったといいます。並の酒飲みでは太刀打ちできない酒豪だとも。
 苦労の多い人生を送った恕葉さんの句は、通奏低音に「悲しみ」が流れており、高齢になると、さらに諦観が加わり何とも言えない味わいを感じさせます。「 いくばくの命指折る程でなし」。「寝酒よし運が来ようと逃げようと」。白刃の下をくぐり抜けてきたサバサバとした潔さがあります。

仏教の散歩道

「ありがとう」の意味

“ありがとう”が英語では“サンキュー”になることぐらいは誰だって知っています。けれども、英語で“サンキュー”と言われて、すぐに“ユー・アー・ウェルカム”(どういたしまして)と返す言葉が出てきません。これは、わたしのようなノーブルな高齢者(“ノーブル”は高貴の意味です)だけにみられる弊害でしょうか。他人までも巻き添えにするようですが、どうも日本人は、
「サンキュー」「ユー・アー・ウェルカム」
 と、スムーズにいかないようです。
 なぜでしょうか?たぶんそれは、本来の日本語に、英語の“サンキュー”にあたる言葉がなかったからだと思います。
 現在、わたしたち日本人は、日本語の“ありがとう”を英語の“サンキュー”の意味に使っていますが、この“ありがとう”は本来は、
 ありがたし(有難し)
であったのです。『岩波古語辞典』を見ますと、この“ありがたし(有難し)”は、
《有ることを欲しても、なかなか困難で実際には少ない、無いの意。稀なことを喜び尊ぶ気持から、今日の「ありがたい」という感謝の意に移る》
 と解説されています。つまり、この語は「ありそうもない」「めったにない」といった意味だったのです。
 そして昔の日本人は、他人の好意・親切を身にうけたとき、それを、仏がわたしにしてくださったものだと受け取りました。このように説明すると、現代人は、それじゃあ親切にした人の善意を無視したかのように思いますが、それは違うのです。相手の人は仏に代わってわたしに親切にしてくださったのです。仏の代理人です。ですから、相手を仏として拝んでいることになります。
 それで昔の人は、たとえば来客がお土産を持参しても、それを受け取るとき、
「これはこれは、ご丁寧なことで…」
と言うだけで、あまりお礼は言いません。そして子どもを呼んで、
「これを戴いたから、仏壇にお供えしてきなさい」
と命じます。そういう形で、すべてのものが仏からの有難い戴きものであることを自分でもしっかり認識し、また子どもたちに教えていたのです。
 けれども、現代人は宗教離れをしました。だから、あらゆるものが「仏からの有難い戴きもの」ではなくなり、人間・対・人間の遣り取りになってしまったのです。
 そうなると、相手の親切・好意に対して直接お礼を言わねばなりません。お礼を言うのはいいのですが、言われた場合、どう応答していいのか、わたしのような後期高齢者は戸惑ってしまいます。わたしは自分の英語の下手さを、そのように理屈づけています。

カット・酒谷 加奈

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