天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第102号

「世界平和祈りの集い」を開催
―比叡山宗教サミット24周年/8月4日―

 比叡山宗教サミット二十四周年「世界平和の祈りの集い」が去る八月四日、延暦寺の一隅を照らす会館前「祈りの広場」において開催された。仏教、キリスト教、イスラーム、神道、新宗教など、国内外からの約九百名を数えた参加者は、世界平和の実現を祈ると共に、三月に起こった東日本大震災の犠牲者を悼み、被災地の一日も早い復興を祈念した。

 午後三時、阿純孝天台宗宗務総長の開式の辞により、式典は開始され、「第四十六回天台青少年比叡山の集い」に参加した青少年による平和の折り鶴の奉納、比叡山幼稚園児が献花。
 法楽に続いて半田孝淳座主猊下は平和祈願文を朗読、世界各地での紛争、テロ、自然災害による犠牲を憂うと共に、東日本大地震にも触れ「大震災からの復旧・復興も、世界に蔓延する憎悪と不信に基づく争いの解決も、比叡山の開祖傳教大師が『己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり』とお示しになられた如く、自己抑制に努めて『許し合い助け合う』ことに立脚しなければ成り立たない」と述べ、全ての人々が心を通わせ、共に生きる精神を持たねばならないと訴えられた。
 続いて国内外の各教宗派の代表者が登壇。平和の鐘が打ち鳴らされる中、世界各地の紛争の一刻も早い終結と平和の訪れを祈って黙祷が捧げられた。また、今回は特に、東日本大震災の犠牲者に対しても、参加者一同により、深い哀悼が捧げられた(写真)。
 また、松長有慶高野山真言宗管長(総本山金剛峯寺座主)が「平和を語る」と題して講演(三面に関連記事)。さらに、世界宗教者を代表して、ローマ法王庁のジャン・ルイ・トーラン枢機卿(教皇庁諸宗教対話評議会議長)とパン・ワナメティー世界仏教徒連盟(WFB)会長のメッセージが披露され、宗教間の相互尊重と協力をもって、正義と平和のために身を捧げようとの呼びかけや、東日本大震災犠牲者への哀悼と被災地の一日も早い復興を願う声明に、会場から大きな拍手が起こった。
 
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 高野山真言宗管長の松長有慶猊下が、八月四日、延暦寺根本中堂と浄土院を参拝された(写真中央左)。
 松長猊下は、同日開催された比叡山宗教サミットに出席されるために登叡されたもので、高野山真言宗の管長が浄土院を参拝されるのは両宗開宗以来初めて。
 松長猊下は、半田孝淳天台座主猊下はじめ、天台宗、延暦寺両内局の出迎えを受けられた。その後、根本中堂を参拝、続いて浄土院へ向かわれ、傳教大師御廟に、半田猊下と共に参拝された。拝殿へも参拝されたが、天台宗以外の高僧が浄土院拝殿に昇殿されることは極めてまれである。松長猊下は「とても清浄な雰囲気が保たれており、感激いたしました」と述べられた。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

試合中、苦しくなったら私の背中を見て

澤穂希 サッカー日本女子代表主将

 いやぁ、何というカッコ好い言葉でしょうか。ほとんどハードボイルド小説の「キメ」の「困ったら口笛を吹いてくれ。すぐに来るぜ」とか「俺の名前なら電話帳に出ている。『タフ』のページにな」に匹敵します。
 ですが、あちらは小説、こちらは現実ですから重みが違う。実力、実績に加えて人望がなければ、こう言っても仲間から冷笑されるだけでしょう。
 澤選手は、北京オリンピックの選手ミーティングでこう言って、チームを鼓舞したといいます。「私は、試合ではどんな若い選手よりも走っている」といい、経験、運動量、決定力、センスを兼ねたキャプテンが「試合中に、苦しくなったら私の背中を見て」というのですから、なでしこジャパンも心強かったことでしょう。
 「苦しくなったら」とは、体がバテたらともいえるし、勝負をあきらめかけたら、ともいえる。そんな時でも、澤選手は、私はピッチの最前線で闘っているから「背中を見ろ」というのです。トップアスリートのみに許された言葉です。そして、ドイツW杯ではその通りに実践してみせたのですから脱帽です。
 澤選手は、〇三年に「結婚してサッカーをやめる」という決心をするのですが、当時の恋人だったジェームズ・ハリス氏は「それは絶対にだめだ。日本サッカー界から必要とされているあなたを奪うことはできない」と諭(さと)したといいます。
 まるで往年の名画「カサブランカ」ではないか。
 カサブランカは「愛する女が実は自分を愛していることが判った上で、なおその女と夫(ここでは女子サッカー)のために、男が危険を犯して」という映画で、そのために史上名高い余韻のあるラストシーンを導くことが可能になりました。
 ドイツW杯も、余韻のあるラストでした。それにしても、日本ではハードボイルドは女子のものになってしまっているのは残念なことです。

鬼手仏心

「思い出」と位牌 天台宗参務一隅を照らす運動総本部長                               福惠 善高

 
 福島県の原発警戒区域の一時帰宅で、多くの方が持ち帰ったものは、「アルバム、位牌、日記、電話帳、年賀状、通帳、ハンコ、証書類」だという記事があった。
 電話帳、年賀状、通帳、ハンコ、証書類というのはわかる。これらは連絡手段と生活必需品である。より上位にランクインしたアルバム、位牌、日記はどうか。
 これらのキーワードは「思い出」である。多くの人々は生活必需品よりも(というか同等にといってよいかと思うが)思い出を運び出したのである。
 困難な生活を強いられるときに、頼るべきよすがは、これまで生きてきた思い出だったのだ。
 未来に向かって希望を見出そうとするカギはこれまで生きてきた足跡にあった。苦しくても、家族、友人、あるいはペットたちとのこれまでの絆を確認し、追憶することで生きる力が涌いてくる。
 特に位牌の持つ意味は大きい。位牌は、自分につながる生命のルーツであり、畏敬と感謝を捧げる対象であり、今は、守り本尊としての意味も持つからだ。
 マスコミでは若者を中心にした宗教離れが盛んに喧伝されるが、土壇場に来れば人は目に見えなくても自分を守ってくれるサムシング・グレート(大いなる存在)を求めたのである。
 それが叶わなかった人たちも多い。津波ですべてを流されてしまった被災者の方々である。
 そのために一隅を照らす運動総本部では、簡易仏壇を作成した。仮設住宅で不自由な暮らしを余儀なくされている方々に配布させて頂いている。本来の家に移るまでの間、利用して頂ければありがたい。

仏教の散歩道

不放逸とは何か?

 《愚かな凡夫は放逸にふける。
だが、思慮ある人は不放逸を守る》
 これは『ダンマパダ』(二六)に出てくる言葉です。“放逸”というのはパーリ語で“パマーダ”といい、怠慢を意味します。その反対が“不放逸”で“アッパマーダ”。努力することです。あるいは精進することです。
 けれども、注意してほしいのは、努力・精進といっても、その方向性が問題です。仏教の教えの基本は、
―少欲知足(欲望を少なくし、足るを知ること)―
 ですから、欲望を叶えるために一生懸命に努力するのは不放逸ではありません。たとえば、サラリーマンが会社の仕事を一生懸命にやるのは不放逸ではないのです。また学者が一生懸命に学問に精進するのも不放逸ではありません。
 おかしいではないかと、反論がありそうですが、仕事を一生懸命にするのは、本質的に欲望を叶えるためですから、仏教はそんなことはすすめていません。
 では、どうすればいいのか……と問われるならば、仏教は、仕事をするときは、「中道の精神」でもって、
―のんびり・ゆったり・楽しみながら―
 しなさい、と教えます。現代の日本人の大半が
―あくせく・いらいら・がつがつ―
 と生きています。仏教はそのような生き方を叱ります。すなわち、がんばってはいけないと教えているのです。
 では、不放逸とは何でしょうか…?いったい、どのように努力・精進をすればいいのでしょうか?
 それは、最初に書きましたように、「少欲知足」です。わたしたちは欲望を少なくするために努力せよ、と仏教は教えているのです。
 人間の欲望というものは、放っておけばどんどん増大します。年収五百万円あるといいな…と思っていた人が、実際に五百万円が得られるようになると〈もっと欲しい〉となります。
 課長になると部長に、部長になれば局長になりたくなります。おいしいご馳走を食べると、もっとおいしいものが食べたくなる。それが人間の欲望の性質です。
 その欲望に歯止めをかける努力をするのが不放逸です。
 しかし、まちがってもらっては困るのですが、欲望をゼロにせよ、と言っているのではありません。いや、欲望をゼロにすることなんかできません。そうではなくて、欲望は自然に膨らむものですから、常に精進して欲望を減少させるのです。それが不放逸です。
 しかし、多くの人は、不放逸をまちがって、欲望を充足させる方向で努力しています。『ダンマパダ』は、そういう人は愚かな人と叱っているのです。

カット・酒谷 加奈

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