天台宗について

The TENDAI Journal~天台ジャーナル~

天台ジャーナル 第101号

「青少年の集い」に被災地から13名が参加
「米の配布」、「寺院ホームステイ」など、草の根支援広がる 東日本大震災

 四十六回を迎える「天台青少年比叡山の集い」が、今年も八月三日から五日まで開催される。今年の参加者は約二百十名。東日本大震災の被災地からも十三名が参加する。東日本大震災から四カ月以上経ち、被災者救援活動も様々な形を見せている。被災地の子どもや家族単位でのホームステイを受け入れる寺院もあり、天台宗災害対策本部の支援活動のほか、草の根支援も着実に広がりつつある。

 今回の「集い」に被災地からは、茨城教区から九名、陸奥教区から四名が参加する。小学校六年生の女子二名、中学校一年生の男子四名、女子六名、中学校三年生の男子一名である。これらの子どもたちの所属寺院は六カ寺。
 「集い」を担当する村上圓竜天台宗参務社会部長は「集いの間は、他の参加者と同じで、特別扱いはしません。多くの子どもたちと共に過ごすことで震災のことを一時でも忘れてくれればいいと思っています」と語る。 
 また、一隅を照らす運動総本部では、追悼慰霊・復興支援の写経運動を展開している。更に被災した檀信徒が持ち運びできる「簡易仏壇」(写真)も作成した。簡易仏壇は千台作成され、被災地寺院住職の申請によって送られている。現在約六百台が発送された。
 各寺院による草の根支援も広がっている。
 七月四日に東松島市大曲地区の仮設住宅「グリーンタウン」の集会所では、被災者に米が配られていた。これは、南総教区の観音教寺(濱名徳永住職)、福島教区千用寺(伊鶴覚智住職)などから届けられたものだ(写真)。
 一包み五キロの米が二百五十袋積み上げられて、被災者に配られている。受け取る人は「お米さえあれば、生きていけます。ありがたいことです」という。
 濱名住職は「被災した石川仁徳萬寳院住職は私の弟子ですから、その地元に支援するのは当然です。米が必要だとのことで、近くの農家に頼んだら届けてくれました。それから檀家にもお願いしたら皆さん喜んで協力してくれました。日本人は、まだ素晴らしい心を持っていると教えられました」と語る。
 米の管理と配布をしている石川住職は「これから新米の季節となります。我々被災した者たちこそ、いち早く、新米を食べて元気になりましょう」と呼びかける。
 茨城教区の妙行寺(大宮孝舒住職)は、被災した東松島市の小学生四人のホームステイを一週間受け入れている。
 東海教区密蔵院(田村圓心住職)は、福島市のNPOの要請を受けて福島県の被災者を受け入れる。
 「福島っ子サマーキャンプ」と題した今回の企画で、同院は八月一日から七日まで子ども二十四人、八日から二十三日まで親と子ども二十人を受け入れる。

素晴らしき言葉たち -Wonderful Words-

光は、実は自分の中にあるんです。

本郷紀宏さん(池田小学校事件犠牲者の父)

 児童八人が殺害された大阪教育大附属池田小事件から今年で十年を迎えました。犠牲になった本郷優希さんの父、紀宏さんが現在の気持ちを語っている記事を読みました。
 紀宏さんは、自らの深い絶望感から、東日本大震災の被害者について「今苦しんでいる人は、毎日朝を迎えるだけで十分にがんばっているんです」と、その気持ちを推し量っています。
 そして、 愛する人を失うことは「光をなくしたような感覚になるんです。小さくてもどこかに光を探そうとするのだけれど見つからない。誰かの支援で持ってきてくれた光もいずれ消えてしまう」と、その苦しさ辛さを吐露しています。
 けれども、続く言葉が素晴らしい。「その光は、実は自分の中にあるんです。苦しみや哀しみから逃げないで向き合っていると、光が少しずつ大きくなって顔を上げられるようになる。だから、今、光を失っていても大丈夫。生きているだけで光をともし続けていることになる」。
 「苦しみや哀しみから逃げないで向き合う」と紀宏さんはいいます。それはとても難しい。よほど精神的に強い人でなくては、できないようにも思われます。
 向き合うということは、じっと耐えるということです。ヤケにならない、自己卑下しない、責任転嫁しないということだと思います。難しいけれど、それなら何とかトライできそうです。
 法華経壽量品に「常懐悲感 心遂醒悟」という言葉があります。「常に悲しみを心に懐いていると、心は遂に悟りに至る」という意味です。
 堪えられないほどの悲しみや苦しみは、誰しも放り出したい。けれども、悲感をじっと心に抱きしめていると、その悲感がその人の心を浄化し、心を醒(さめ)めさせてくれるのです。
 「光は自分の中にある。生きているだけで光をともし続けていることになる」
 愛娘(まなむすめ)を失うという悲感を、十年に亘り懐(いだ)き続けてきた父親が、遂に至った悟りの言葉だと思いました。

鬼手仏心

女神が微笑んだ 天台宗財務部長 阿部昌宏

 
 サッカーの第六回女子W杯ドイツ大会で、日本代表なでしこジャパンが優勝した。  
 ワシントンポストスポーツ版は、試合前に米代表GKホープ・ソロ選手が「日本選手は何か試合より大きなもののためにプレーしている。難しい相手」と語っていたことを報じていた。
 試合より大きなものとは、東日本大震災に思いを寄せる日本人全部の心であろう。ニューヨークタイムズは「日本代表には、優勝が日本に勇気と誇りをもたらすとの思いがあった」と報じた。そのことは誰しも感じていた。どんな政治家の立派な言葉よりも、なでしこジャパンの優勝は、我々に希望をもたらした。
 最初はアメリカの猛攻に押され気味で先制されたが、追いついた。延長戦で二対一と勝ち越された時には、誰もが「これまでか」と思っただろう。サッカーは、そう簡単にゴールを割れないスポーツである。
 それでもあきらめずに延長戦終了三分前、ついに主将・澤穂希(ほまれ)選手が、コーナーキックからのボールを、右足一閃で同点ゴールとした。スポーツには「勝敗を分ける一瞬」がある。まさにその「一瞬」だった。
 これで流れが変わったのがはっきりとわかった。この時、PK戦を待つまでもなく日本代表の勝利を私は確信した。勝利の女神は「試合より大きなもののためにプレーした」者たちに微笑んだのである。
ニューヨークタイムズは「フクシマの年の日本の伝説」と報じていた。外国からみれば、今年の日本は「フクシマの年」なのである。その年の、なでしこジャパンの優勝は、将来、東日本大震災から立ち上がった日本のシンボルとして記憶されるだろう。

仏教の散歩道

仏教は出世間の教え

 仏教講演会の会場で、ときどき質問される問いのうちに、
 「会社の同僚に、どうしようもない怠け者がいます。その彼にどんな忠告をしてあげるべきでしょうか?」
 といった類のものがあります。いささか腹立たしい質問です。それでわたしは、
 「他人のことは、どうだっていいじゃないですかあなたは、自分の問題を考えればいいのですよ」
 とぶっきらぼうに答えて、質問者ばかりでなく、会場の一部の聴衆の反感を買ってしまいます。わたしって、ちょっと馬鹿ですね。
 では、なぜわたしが「他人のことはどうだっていい」と考えるのか、その理由を説明しておきます。
 まず、仏教というものは、
 ―出世間の教え―
 です。ということは、仏教は世間の問題に直接タッチしません。たとえば、原子力発電所が必要か否か、仏教に解答を求められても困ります。それは政治・経済・社会の問題―すなわち世間の問題―であって、それぞれの専門家が知恵を絞って解答を出し、国民がどの解答を是とするかを判断するのです。世間の問題は、あくまでも世間の利益にもとづいて判断されるべきです。
 ですから、会社の中にどうしようもない怠け者がいて、それが会社にとって不利益になるのであれば、会社がその人を首にすればよいのです。仏教はそれについてはいかなる発言をしません。
 では、仏教は、「怠け者」についてどう考えているのでしょうか?
 じつは、仏教においては、仏がその人を怠け者にしておられるのだ、と考えています。もっとも、この表現はいささか不正確です。怠け者/努力家というのは縁起によってそうなるのです。全員が努力家になることもできないし、全員が怠け者になるわけではありません。努力家がいるから怠け者ができるのだし、怠け者がいるから一部の人が努力家になれるのです。いちいちそういう言い方をするより、そのことを、仏が一部の人を努力家にしておられ、また仏が一部の人を怠け者にしておられると表現したほうが簡単です。それでわたしは、仏がその人を怠け者にしておられると言うのです。
 ある人を優等生にされるのも仏であれば、ある人を劣等生にされるのも仏です。
 だから、仏教においては、怠け者は怠け者でいいと考えます。それが出世間の考え方です。
 しかし、世間の人は、怠け者が怠け者であってはいけないと考えます。仏教は、世間の人がそう考えるのに対して、何も言いません。それは世間の問題だからです。ただ仏教者としては、怠け者を非難しようとしないだけです。わたしはそのことを言いたいのです。

カット・酒谷 加奈

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