天台宗について

法話集

No.169ありのままに生きる

 時は春。植物は一斉に芽吹き花を咲かせ、様々な動物や虫たちが徐々に緑色づく季節を待ってましたとばかりに謳歌しているように見えます。それはもちろん我々人間も同じで、「今年は何処にお花見に行こうかしら」などとこの時期ならではの計画を立てておられることでしょう。

 毎年この時期に思い出す言葉があります。
「百花為誰開」
 有名な禅語であり茶事などでもよく用いられます。「美しく咲き誇る花々は誰の為に咲くのか」。素朴な問いかけでありますが、実に奥深い真理を説く言葉かと思います。
 花たちに、美しさを褒めてほしいとか、虫を誘き寄せるためとかの思慮があるわけではなく、水と養分そして温度や日照度などの条件が相整う自然の法則に従い花が咲きます。自然の道理に過ぎない事は誰もが知っています。百花植物に「こころ」が有るか無いかということはさておき、「縁に従って有りの儘」に無心に生を受けた本分を全うし生きているのです。

 さて、そこで同様に広く自然の中に生きる我々人間はどうでしょう。どうしても自意識から逃れることが出来ません。「諸法実相諸法無我」を素直に受け入れられず、むしろ逆らうことでかえって苦しみから逃れられない。ついには「私は何の為に生きているのか」と悩むことさえあるのでは。
 花々はそんなことは考えません。ただそこに在って咲いています。それだけで我々に生き方を次のように教えてくれているのではないでしょうか。
 「多くの縁とお蔭によって生かされていることに気づきなさい、与えられたお役目を全うすることでそれぞれの命が輝くのだよ」と。

 過日、第253世天台座主山田恵諦猊下の25回忌法要と偲ぶ会が催されましたが、猊下も晩年この「百花為誰開」の言葉に心を向けられたようで、御軸や額などに揮毫が遺されています。
 ある朝、自坊の床之間を見ると山田猊下直筆「百花為誰開」の御軸が掲げられておりました。坊守である妻がいつの間にか取り換えたようですが、いつも隅々まで目配り気配りを欠かさない彼女のこと、文字の「花」を見て春らしさに選んだのか、何かしらの想いを込めたものなのか。客人歓迎の意か、彼女自身への鼓舞か、はたまた拙僧へ向けられた戒めでありましょうか。
 敢えて確認はせず、猊下の御心に想いを馳せながら佛前で手を合わせました。


(文・延暦寺一山 恵光院 小鴨 覚俊)
掲載日:2018年04月01日

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