天台宗について

法話集

No.167感謝の言葉

 「あんなに良くしてやったのにお礼の言葉もなかった。」「プレゼントしたのに喜ばなかったようだ。」こんな思いをしたり、こんな愚痴を誰かから聞いたりしたことはありませんか。
 私は「感謝」というものについて考えさせられることがありました。それは、以前、スリランカに現地公用語のシンハラ語習得のために留学していた頃のことです。

 留学中、友人の家や大学の先生のお宅に招かれることが数多くありました。私は家に招かれたら必ず日本から持参した相手が喜びそうな手みやげを持参しましたが、そこで気がついたことがあります。それはシンハラ語で感謝を表す「イストゥティ」という言葉をあまり耳にしないということでした。私に返される言葉は、若い人だと「Thanks.」や「Thank you.」といった英語が多く、年配の方だとたいてい「ピン」という単語を含んだシンハラ語が返ってきます。しかも、年配の男性はほとんどが仏頂面です。贈り物に対してだけではなく、頼まれた仕事をした時などもそうでした。そんな時、「もっと喜ぶ顔が見たかった。」「きちんと感謝の言葉が欲しかった。」と思いました。

 やがて、シンハラ語やスリランカの仏教(上座部仏教)を学ぶうちに、あの「ピン」という言葉はサンスクリット語の「プニヤ」を語源とする「福、善、功徳」といった意味があるということを知りました。ですから、あの年配の方たちから返ってきた言葉は、「これはとても大きな功徳ですよ」「あなたの善行が確かに功徳として積まれましたよ。」という意味だったのです。生前、善行を積んで功徳となして、来世でもっと良い世界に生まれ変わり、さらに涅槃を目指すという上座部仏教では、何かをもらったり、助けてもらったりした時、その行為が相手の功徳として確実に積まれたことを認めるのが最高の感謝の表現なのです。厳かな顔(仏頂面)だったのも納得しました。その時、私は自分の行為によって相手の「喜ぶ顔」や「感謝の言葉」を求めていた「欲」に恥ずかしくなりました。それに対して相手は私の「功徳」を認めて称えてくれたことに気がつき、どちらが「忘己利他」の精神なのかと反省しました。

 人を助ける、救う、喜ばれる、そして自分も幸福になるということは難しいことかもしれません。それは小さな善行の積み重ねと感謝の気持ちで出来上がるものです。そんな世界をめざし、素直に相手の善行を認め、感謝の言葉を述べましょう。


(文・神奈川教区 泉福寺 浮岳 亮仁)
掲載日:2018年02月01日

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