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| ■ お盆について |
お盆は、古いインドの言葉ウランバーナ(逆さに吊された苦しみ)からきた盂蘭盆(うらぼん)を略したものです。お釈迦様の十大弟子の一人で神通力第一といわれた目連(もくれん)さんが、その力で餓鬼道(がきどう)に落ちて苦しんでいる母のことを知って、驚いてお釈迦様に相談されました。するとお釈迦様は「夏安居(げあんご・夏の修行)がまもなく終わるから、七月十五日に修行を終えた僧に供養しなさい。必ず功徳がありますよ」と教えて下さいました。目連さんはその教えのとおり実行して、母をその苦しみから救うことができたそうです。この故事にもとづいてお盆の行事が行われるようになりました。日本に伝えられたのは、今から一千三百年前のことです。お盆には、亡き両親をはじめご先祖があの世から帰って来られるので、大切におもてなしして、心から感謝を捧げる期間とされ、今では日本の夏を彩る国民的行事になっています。全国的には八月十三日から十六日(東京は七月)にかけて行われ、墓参りのために郷里へ帰る人で大移動が生じます。 けれども、お盆の行事が形式に流れて、生きている我々がどう受け止めるかという大事なことが忘れられているようにも思われます。私達が考えなければならないポイントをあげてみましょう。
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| ■ こどもの日 |
5月5日は「こどもの日」でございます。昔から男の子に親しまれた端午の節句であります。しかし、この「こどもの日」は、決して男の子だけを対象としたものではなく、もちろん女の子も含むわけであります。 要するに、季節的にも非常に良い時期で、こどもにゆかりのある日として決められたのであります。 女の子にしてみれば、3月3日でもよいではないかという考え方もあるかも知れませんが、3月3日頃は、東北、北海道地方などでは、まだ雪が残っていて、全国的な行事としては3月3日よりは5月5日の方が良いということで、5月5日が選ばれたわけであります。 この日は「こどもの人格を重んじこどもの幸福をはかるとともに、父母に感謝する日」といわれております。 こどもの日が定められたことは、成人の日が取り上げられたことと共に、特に次の時代の人に大きな期待をかけていることを表すものであって、すべての国民がこぞってすべての子供を祝い、その幸福を図ろうとするものでありまして、更にこどもの人格を尊重し、大人と同様に生きる権利を持つ一個の独立した人間として見ようとするものであります。これに加えて、こどもを育て上げるには父母のお陰であるから、こどもの日にはその父母に感謝しなければならないということが併せてその趣旨に含まれているのは誠に結構なことと思います。 よく言われることですが、こどもの誕生日も年々派手になり、小学生などは級友を呼んで賑やかにやり、反面、呼ばれなかった子との間にトラブルを起こしたりするようになってきているそうですが、本来は、誕生日は「母の受難の日」ともいわれていますように、こどもを産むということは、母親にとっては大変な事だと思われます。 取り分け、この苦しみを乗り越えて産んでくれた母親に対して感謝の気持ちを植え付ける意義も含まれているわけでありますが、今の「こどもの日」にご両親に感謝しなければならないという意義を知っている人がどの位いるでしょうか。 こどもの成長を願うことは大変結構なことですが、この陰に隠れている両親、特に母親の苦労をこども達に十分理解させることも大切なのではないでしょうか。 |
| ■ 持戒正念について |
持戒正念(じかいしょうねん)とは、言うまでもなく戒を持(たも)ち念々正しき道に住し、近くは人道を全うし、遠くは仏果菩提を証するに至ることであります。伝教大師は比叡山に菩薩の戒壇を建て、円頓受戒の道場とされました。 梵網経(ぼんもうきょう)には「衆生は仏戒を受くれば、すなわち諸仏の位に入る」と記されていますが、戒を受けた瞬間に自分の心にある仏が発見され、仏と同等の位になるのです。 正しい安定した生活を送るには、戒が基本とならなければなりません。天台宗には授戒会(じゅかいえ)といって天台の教えの正統を伝えている天台座主貎下から直接円頓戒を授かる大切な儀式があります。また、亡くなったときには住職から戒を受け、名前を変えます。ですから単に法名と言わず「戒名」と言うのはそのためです。大師は「その戒広大にして真俗一貫す」と言われているとおり、僧侶だけでなく、在家の人も受けるべきなのです。 受戒してからの信仰生活の規範に三聚浄戒(さんじゅじょうかい)というのがあります。摂律儀戒(しょうりっぎかい)、摂善法戒(しょうぜんぼうかい)、摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)の三つです。 摂律儀戒とは、悪を止める意味で、身を修め慎むこと。在家の方ならば、五戒をたもつことです。五戒というのは
摂衆生戒とは、世の為、人の為になることをしようと決心することです。 その他に十善戒や十重四十八軽戒などがありますが、要するに悪いことはしない、善いことは進んでしましょう。世の為人の為に尽くそうと言うことで、そうした行為は戒香の薫るようにゆかしいもので、また戒の鎧を着けたようで犯し難いものだと言われます。 七仏通戒偈 諸の悪は作すことなかれ。諸の善は進んで行ぜよ。 自らの意を浄くす。是れ諸仏の教なり |
| ■ 花まつり |
4月8日は、お釈迦さまの誕生日にあたり、お釈迦さまの「誕生仏」に甘茶を灌ぐことから「灌仏会」(かんぶつえ)ともいわれ、一般的には「花まつり」といっています。お釈迦さまの記念日には三つあり、一つはこの「お花まつり」即ち「灌仏会」、二つ目はお釈迦さまが悟りを開かれた日、即ち「成道会」(じょうどうえ)、三つ目はお釈迦さまがお亡くなりになった日の「涅槃会」(ねはんえ)でありまして、これはお釈迦さまの三大法会として重んぜられております。 お釈迦さまは「シャカ」というお名前ではありません。インドの一地方にシャカ族という集団がありました。そのシャカ族の王子としてお生まれになり、最終的に「シャカ族を代表する立派な方」ということで、釈迦の釈と尊い人の尊という字を合わせ「シャカ族の中で最も尊い人」ということで、「釈尊」あるいは「お釈迦さま」といわれるようになりました。 お釈迦さまのお生まれになるご様子につきましては、母君が出産のため、ご自分の実家へ向かわれる途中、ルンビニー園という所へ差し掛かった時、美しい花の下に至り、たれさがった花の枝を取ろうとした時に、たまたま産気付かれ、お生まれになったとされています。右の脇の下からお生まれになったということは、王族(士階級)は臂(うで、肩のつけね・脇)から生まれるという古代インドの伝承によるものですが、それはそれとして素直に受け止めておきたいものだと思います。 さらに、生まれ落ちるやすぐに七歩あるいて立ち止まり、「天上天下唯我独尊(天にも地にも我一人)」と唱えられたと言われています。 城にお戻りになり、「シッダルタ」と命名されましたが、悲しいことに、お釈迦さまの母君はお釈迦さまをお産みになって7日目に亡くなられ、その後は母君の妹に当たる方に養育されました。 いずれにしても、お釈迦さまがルンビニー園で誕生なされた時に、竜王が空中より香水を灌ぎ、身体をお洗いになったという因縁にもとづいて「お花まつり」の時には、きれいなお花をかざった、「花御堂」の中にお釈迦さまをおまつりして、甘茶を灌ぎ供養を行う行事が、日本各地で行われています。 この行事も偉大な宗教家「お釈迦さま」への仏教徒の尊敬の意のあらわれです。 |
| ■ どっちもいい |
水を見たら水の美しさを見ればいい 花を見たら その美しさに見とれればいい 春もいいが 夏もいい 秋もいいが 冬もいい どっちもいい・・・・ 武者小路実篤氏の詩です。「どっちでもいい」ではなく、「どっちもいい」といっているのです。 「で」が入るか入らないかで、意味は全く異なります。「どっちでもいい」ということばには冷たい響きがあります。「AでもBでも、私にはどうでもいいことさ」となげやりな感じがします。 では、「どっちもいい」の方はどうでしょうか。あれもいいし、これもいい。つまり、すべてがいいということで、あらゆるものの中にそのものの良さを見出していこうとするように見受けられます。それは、さまざまなものとの関わり合いを大切にする姿なのです。実に私たちの生活はこの関わり合いによって成り立っています。ですから、「どっちでもいい」と、なかば投げ槍に過ごすのではなく、「どっちもいいな」とすべてのものに暖かな慈しみの心をそそげたならば、生活に潤いを持つことができるはずですし、これを仏教では「縁」というのでしょう。 私たちは、気付くと気付かざるとにかかわらず、この縁によって一日一日を生きているのです。 さて、そこで問題は、これを「ご縁」としてありがたく受け取るか、「無縁」として無視するかなのですが、あなたはどうなさいますか。 |
| ■ 幸せってなんだっけ |
『幸せってなんだっけ なんだっけ ポン酢醤(しょう)油のある家さ』という明石家さんまのテレビコマーシャルを見ていた子供が、『ねえ、お母さん、うちにポン酢しょう油ある?』 『あら、あいにくきらしちゃってないわ』 と答えたら、子供はすかさず 『じゃあ、うちは幸せじゃないんだ』 お母さんはあわてて隣の家からポン酢しょう油を借りて来たら、子供は、 『幸せって、借りて来るものなのか…』 と言ったということです。 また、この話にはもう一説あり、お母さんは、隣の家には行かず、スーパーに買いに行った。すると子供は、 『幸せって買うものなの?』 と言ったというのです。 この話は大変皮肉な言い回しではありますが、本当の幸せとは何かを考えるヒントを与えてくれています。 ところで、昔の話にこんなのがあります。 極楽でも地獄でも食事はするのだそうですが、その食事を比べて見ると、全く同じなのです。食器も、おかずの味も、量も、食事時間もすべて同じなのですが、たった一つだけ全く正反対のところがあります。 極楽ではにこやかに楽しげであるのに、地獄では先を争い、ケンカが絶えない。そこが違うのです。その原因は、箸の使い方にあるらしい。 箸だって、地獄も極楽も同じです。もっとも、私達が普段使う箸とは違って、数十倍長い。ですから、その箸で食べ物を自分の口に入れようとすると、箸が長すぎてうまくいかない。地獄では、我先に食べようと焦るものですから、隣の人を箸でつつくことになり、ケンカになる。 ところが、極楽では、その長い箸の利点を利用して、遠くに座っている人に食べ物を食べさせている。お互いに助けあっているものですから、とても楽しげなのだということです。 この話しは、私達に本当の幸せとは何かということを語りかけているのです。 幸せとは、「仕合う」ことなのです。人の幸せのために何かを心がける。そうした中にこそ本当の幸せがあるのではないでしょうか。 |
| ■ 盲導犬「サーブ」 |
テレビや新聞で報道されましたのでご存知の方も多かろうと思いますが、3本足の盲導犬「サーブ」のことについてお話致しましょう。この盲導犬「サーブ」は、メスのシェパードですが、目の不自由なご主人を暴走する車から自分の身体をつかってかばい、跳ねられてしまいました。その事件がもとで左の前足を失ってしまったのです。年令は10歳7ヵ月、人間でいえば、ちょうど還暦位の年になるそうですが、最近はすっかり弱ってしまったのだそうです。 この「サーブ」の勇気ある行動に感動した子供達の手紙は5年間で5千通を超えました。年賀状も毎年5百通はくるそうです。有名になったサーブには、正式の住所である「名古屋市港区十一屋 中部盲導犬協会訓練センター」と書かなくても、「名古屋市サーブ様」で便りは届きました。 また、訪問する子達もたくさんいます。そんな中の一人の少女がやつれた顔でセンターを訪れ、サーブの首にしがみついて、約3時間涙していたそうです。そして、サーブはなすがままにその少女をじっと見守っておりました。しかし、その少女の帰る時には、元気になって笑顔で別れたのです。 後日、その少女からセンターに、「やり直します。サーブ、本当にありがとう」と電話がかかったのです。1匹の犬が、この少女に生きる勇気を与えてくれたのです。 誠に素晴らしいことです。「サーブ」とは英語で「奉仕する」という意味です。「サーブ」が左の前足と引換に、私達人間に奉仕と勇気並びに愛、さらに自己犠牲の教訓を示してくれました。 ひたむきな「サーブ」の生きざまが、純真な子達に大きな感銘を与えてくれました。 「サーブ」よ本当にありがとう。 ※1988年6月13日、盲導犬サーブは、天寿を全うし、他界しました。 合掌 |
| ■ 心こそ |
ある夏のこと、小学校の林間学校での出来事です。先生は生徒を集めて言いました。「今日は山登りをする。ほら、あの山だ。だが、みんな、気をつけてくれ。あそこにはマムシがたくさんいるからね。マムシに噛み付かれたら死んじゃうよ。そこで、これを用意した。長靴だ。これを履けば、足を噛まれても大丈夫。それからこの竹の棒、先頭の人がこれを持って、前をたたきながら歩く。そうすれば、マムシは逃げるだろう。では、出発するぞ。先頭には誰がなってくれるかな」 先生はそういって生徒にうながしましたが、みんな怖がって、誰ひとり先頭に立つものはいません。 「しかたがない。それでは先生が先頭になろう」 と言って、先生が先頭になって歩き出しました。 ビシッビシッと竹の棒で草木をたたきながら登っていったのです。しばらくして先生は、竹の棒をスポンとほうり投げ、 「あれ、棒があんなところに飛んでいっちゃった。君たち拾って来てくれないか」 と生徒たちに頼みましたが、マムシが怖いので、拾いに行く者はいません。 「じゃ、仕方がない帰るとするか。まわれ右して、一番後ろの者が今度は先頭になれ」 するとどうでしょう。みんな嫌がって、結局、先生がまた先頭になって帰ったのです。 さて、夕食に一同が集まった時、先生はこういいました。 「今日はみんなに魔法をかけてみた。魔法に使った道具は三つ。長靴と竹の棒と“マムシがいるぞ”という言葉。この三つの道具で、マムシがいると思い込んでしまった。実際はマムシなんか一匹もいません」 これは『ことば・詩・子ども』という本に載っていた話です。 「マムシがいるぞ」というほんのちょっとした言葉と小道具によって、マムシがいると想像してしまったのです。 私たちの心は、真実でないものをあたかも真実であるかのごとく思い込んでしまうところがあります。ですから、心のありようがとても大切なのです。 心こそ、心迷わす心なれ 心に心、心ゆるすな という句を座右銘にして、日々の用心にしたということです。 あるいはまた『月庵仮名法語』に 「仏法というは、別の事にあらず。只、我が心なり。我が心を善く持てば即ち仏の心なり」といっています。 日々の自分の心をいかに保つか。どうもこれが人生の鍵のようです。 |
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